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こんにちは

唐突ながらも悩みがありまして、そんなことについてだらだらしゃべり続けようかなーと。




自分が人として確たる意志を持って自分と分離することをひとつの分岐点としておいた時に

人間関係の扱いに困っていて

こう、いい人がいたら、いいなーとなって、悪い人がいたら、あぁふーんほぉーん、と

ある程度の準備を持って接するじゃないですか、接しない人もいると思うんですけども

いい人と話す時はある程度の高揚感を持って話すことも多くて、それはつまり考えの共有というよりは

人との対話に近いと思います。

それでもって、自分を他人として接する際、その他人の指標が本義での他人にうつってしまうので

自分はより奥行きのないものになっていくんですよ!

それはつまり論考を知るということかもしれなくて

他人を自分の思考の糧として利用することになってしまう、いやこれは論理の飛躍かもしれないのですが

実際に自分は他人を考えの反響板という位置から精神的決定を左右されうるところまで重要度をあげてまして

その時に人としての自分と複雑な自分、人間味を否定するような人格はどこかに消えてしまって

人との平衡で物を考える癖がついてしまうんですよ!私は




そして精力的でいることは無理だ!無理だ・・・とまでは言わないけど少なくとも自分には難しいと思うんですよ

新しく見えた考え方も、論理も、音も、色も、全て今まで見てきた二次的ななにかの使い回しとして

あほなのか、あほじゃないなら何なんだ

自分にすかれることが全てなのかと言われてもそうではないと思うし、では他人はというのも見当違いじゃないかなとおもう

実際に自然的にあるということに関して自分が何らかの感情をいだくことを否定はしないけど

それをジャンルにわけてこれはこれ!それはそれ!というのはひどく間違ったことをしているというか

いや絶対的に間違っているというのは広く見ればそう言えるわけではないんだけども、それを疑いの濾過装置を通さずに

わーいこれが真実!ひれふせみたいなことをするのは、とてもあほだと思う。我ながら

自然が自然であるように自分は自分であって

誰しも自然というものを持っていると思う、たぶん

それが万人受けするとは限らないし、自分に好かれるとも限らない

ただ自分はそれを娯楽として見たくなくて、より自然的なところに置いて

言葉を取り除いたところで放棄しておく

放棄しておきたい?今はそれが出来ないから困っているわけなんだけども

偶像を未来の自分として指標にするから話が拗れていつもわけわからんことになってしまうわけであって

そこにより存在に近い感情を挟むなら、それこそがそのモチベーションとなってじゃあそれに好かれなかったらどうなるのかといったら

いやそれに従えばいいじゃん!となるのが

とてもベスト

・・・だと思う

思うには思うんだけども、やっぱり人としての自分は自分が好いてなりたいと思ったものになりたいと思ってしまう

それほど偶像の存在は自分の中で大きい、それが今までの考えの上での結晶ならなおさらだと思う

その対価がここで支払われるのだと期待して何が悪いのとか思ってしまう

それは結局平面的に見た感情の嗜好に過ぎないんだけど

平面的であればあるほど魅力的に見えるというのは得てして的を得ているというか、いや自分でいうかって感じなんだけども

解釈を足せる存在であればあるほど、退行してしまうというか

生産したものを消費者側から精査するの!?とか、思うんだけど

まぁ・・・止められないというか





しょうがない側面も多少なりともあるとは思うんだけど

・・・ただ言い訳したかっただけで

考える事はとてもむずかしいと思う

目的をもつこともとても難しい

いつでも死ねて、いつかは生きれるんだとも思う

自分によって動かされるのも正直しんどいし、それが他人ならむりむりむり案件だと思う

最終的に感知の段階に余計な思考も論考もいらないと思うし

その段階こそはまっさらなものであったほうが自分としては生きやすい

というよりもそれこそがあるべき・・・べきは使わないようにしてたっけ

そうなりたい!

そうなりたいな









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