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自分の世界の中で出来ないことがあったとして

そこで好きになるべきなのは

不可能と出来る自分なのかなぁ?と最近はおもってます





自分は目的を持つことに向いてないので(そもそも向いている人がいるのかは分かりませんが

なるべく今を見るようにしていて

目的を持った時の助走距離はイコール考えてない時間になりやすいんですよね

まーたまに考えから外れて現実的に悦楽に浸りたいとかならそういった一面的な考え方もありとは思うんですけど

それに実践においては難しいことを考えるより今できることを考えたほうが楽しいですしね





才能やらセンスやらそういった抽象的な言葉もまぁ確かに処理速度やらそういった脳のスペック差などといったところでは確かにあるとは思うんですけど

本当に大切なのは集中力で、集中力は認識主義の根幹をなしてるんじゃないかなーとも思います





自分の場合は常日頃からもっと頭がよかったらなぁとか、芸術的な才能があったらなぁとか考えたりしているんですが

そういったものが全くもって無駄なのかというとそうではないと思います

出来ない身の上で仮に出来た時のことを考えることはつまりそのものの価値を自分を物差しにして知るからです

そしてそれはなにかで代用できないのかということを考えるのもいいと思うんですよ

自分は天才と呼ばれる人ほど頭のスペックがよくないので論理解釈をして感覚を凌駕するためには何度も何度も噛み砕いたり

自分の世界を使って行動したりしていて

そういった代用案というのはそこに絶対的に甘えるのであれば不健全ですけど、何を齎すかということを考えるのはとてもいいことだと思うんです

だからいつまでも誠実でありたいし、それが自分の最もいい形だとも思うんです








そこで一つ思ったことが

目的を恨むことに気づいて以来

目的を持たないのならどこに向かえばいいんだ?といったことがありまして

何事にも活力が必要だから(無論集中力を行使するためにも)

その開いた空間は自分が生き抜くこと自体に焦点をあてればいいのかなぁ?とも思ってたんですが

いまいちしっくりこなくて

一つの案として出たのは、手段を複数持つこと

それも自分の根幹となる部分を変えて、です







一度、感覚のみで生きてきて

人が見えないものが見えるのはいいけど、人に容易く見えるものが全く見えないといったことに悩む時期があって

では論理的な解釈を学べばいいんじゃないか?となったはいいものの

論理的といっても短絡的な解決思考も甚だしかったので案の定平凡な感じで堕落して

これは自分として生きる意味がなくないか?なんて思っていて







要は、人と違う世界、音に色が見えたり、数式を自明の理で解けてしまうような世界で生きていない限り論理解釈のみで

自分の満足のいくように生き抜くのは不可能で

効率化は人格の簡素化を促進させるのかなぁなんて思ったりして







性格で永続的に幸福に生きないのは不可能だけど、自分の世界で幸福に生き抜くのは可能だなーと思って

ただまぁそれも現実的な処理や行動に関してある程度の価値基準を置いてそれを上回ることも前提として置いてるのですが

それでも生きないよりはましだなーと思って












たぶん目的に対して生き抜く限りなく広い時間は

情熱的に生きるには広すぎるんではないかなー

だからまず手段に好意を示して

好きであるが故に厳しくして、包容的な身の持ち方をすればいいんでないでしょうか










考えを心の中にしまって温めて

それが思いもよらぬ形で膨らんで

いつか才能として自分の前に現れたなら儲けものですしね

その好機を逃さないためにも誠実さと集中力は大切なんじゃないでしょうか。知らないけど







だから不可能を愛して、出来る自分を愛して、目的を恨めばいいんじゃないでしょうか

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